信頼の原則と危険の負担

私は、ある商社の運転手ですが、過日自動車を運転し、歩車道区別のない約六メートル幅の道路を時速四〇キロで走っていたところ、道端にいた子供が母親の手をふりほどき飛び出してきて、そこを通行しようとした私の車の後部にぶつかり重傷を負いました。私としてはどうしようもない事故だと思いますが、やはり処罰は免れないでしょうか。
信頼の原則とは、刑法学上の理論で、やや難しい問題ですが、これを簡単に説明しますと、自動車運転者は他の交通関与者、たとえば、他の運転者や歩行者などが交通規則を守るであろうということを信頼して運転すれば足り、したがって、これらの人たちが交通違反の態度に出るかも知れないといつもそのことを念頭において運転する必要はないという理論で、ドイツにおいて判例理論として発達したものです。近時自動車などの高速度交通機関の社会的使命や効用性が高まるにつれて、これから生ずる危険を運転者と一般大衆との間で公平に分配しようとする、いわゆる「危険分配の法理」を基礎として、一般大衆が交通法規を守るという適法行為を期待したものであり、現代のように交通規則の教育と訓練が次第に徹底浸透してきた以上、一般大衆にこれを期待しても必ずしも酷ではないという考え方にもとづいています。
したがって、この原則にしたがえば、運転者の予見義務の範囲は、この原則を認めない場合にくらべて、とうぜんせばめられることになります。たとえば、交差点を通過するとき、対向の信号機が青で左右道路の信号機が赤であるならば、左右道路から交差点に進入しようとする車両や通行人は、交差点前でいったん停止することが期待されます。したがって、信号機にしたがう自動車の運転者は、左右道路から交差点に進入しようとする車両や歩行者が信号を無視して交差点を通過するかも知れないという配慮から自動車を交差点前で停車させたり、徐行したりする必要はないということになります。もちろん、その期待に反して信号無視の車両があった場合には、運転者として直ちに急ブレーキその他の措置をとって結果を回避する義務はありますが、その義務を尽くしても結果を回避することができず、相手方に死傷を負わせてしまったとしても、この場合には運転者としては過失がなく、したがって責任は問われないということになります。

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このような信頼の原則を論じますと、なかには、自動車のような危険なものを運転すること自体危険なのだから、事故を起こした以上責任を負うべきだという一連の人たちがいます。もちろん無過失責任を問うならば別ですが、しかし、責任のない者を処罰することは刑法理論上あり得ないことです。また、自動車自体危険だからいけないというならば、その運行をすべて停止するほかありませんが、もとよりこの結論が現代の社会に許されないことは、何人にとっても明らかでしょう。
つまり、自動車等高速度交通機関の運行は、いわゆる「許された危険」として社会的に許されており、違法とはされないのです。これは、医療行為を始めとして、科学実験、土木工事、工場、鉱山からスポーツ競技に至るまですべて同じことで、これらの行為には常に潜在的な危険をともなっています。もし、この潜在的危険があるからといって、これらの行為を一切禁止してしまえば、社会の発展がストップしてしまうばかりでなく、現代の文化生活そのものを続けることも不可能となってしまうでしょう。つまり社会的の高度の有益性のためには、ある程度の危険は忍ばなければならないのです。
しかし、許された危険の法理は、一般的にこのような危険な行為をしても違法ではないことを社会的に許容されたものに過ぎませんから、具体的に危険に直面した場合には、その具体的な行為によって、はたしてその行為が許された危険の範囲内にある行為かどうかは一々判断されなければなりません。つまり、結果回避の可能性を考察するにあたって、具体的状況下において社会的に許容される行為かどうかを検討します。そして、その許容範囲の行為しか行なっていないのに結果が発生したときは、結果の回避は不可能であったということになり、その運転者の行為は罪にならないことになります。本問の場合、母親がこどもの手をとって、つき添っていたのですから、急に道を横断するようなことはないであろうと考えるのは、信頼の原則の理論からいって相当といわなければならないでしょう。そして、こどもが車体後部に衝突している状況からして、結果回避の可能性はなかったと認められます。したがって、恐らく刑事責任は負わないものと考えられます。
以上の点をまとめれば、「許された危険」とは、その交通機関の社会的有用性を考慮し、危険行為を許す範囲を広く認めようとするものですし、「危険の分配」とは、交通機関の社会的有用性を考慮し、一般人に協力義務を認めるものといえましょう。そして、これを基盤として、運転者側からみて、その予見義務の範囲を正当に定めようとしたものが、「信頼の原則」ということになります。

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