示談のやり直し

私は、交通事故の被害者ですが、加害者の泣き落としにひっかかってつい示談書に署名押印してしまいました。ところが、その後身体の方が一向回復せず医療費がかさんで困っております。もう一度示談をし直すというわけにはいかないでしょうか。
近年、交通事故の事故処理の不手際による法律的紛争が多くなってきていますが、そのなかでもしばしば問題となり、社会的にも大きな関心を寄せられているのが本問にいう示談のやり直しの問題です。
示談をいったんしますと、原則としては、やり直すことはできません。どうしてかといいますと、民法六九六条に「当事者ノー方ガ和解二依リテ争ノ目的タル権利ヲ有スルモノト認メラレ又ハ相手方ガ之ヲ有セザルモノト認メラレタル場合二於テ、其者ガ従来比権利ヲ有セザリシ確証又ハ相手方が之ヲ有セシ確証出デタルトキハ、其権利ハ和解二回リテ其者二移転シ又ハ消滅シタルモノトス」と規定されているからです。これは、示談は争いをそれで終わらせるためにするものだから、あとから文句はいわせないという規定です。したがって、いったん示談をすれば、特段の事情のないかぎり、被害者は賠償請求権を放棄したものと認められます。もちろん、加害者側が被害者の事情を了解して、合意のう大で示談の内容を変更することはさしつかえありませんが、双方の合意がなければ、変更することは原則としてはできないわけです。

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しかし、つぎのような場合は例外で、たとえ示談が成立していても、無効となりまたは取り消すことができます。
その内容が公序良俗に反する場合。
相手方と通謀して虚偽の示談をした場合。
示談の前提とされて争いにならなかった事項について要素の錯誤があった場合。
詐欺、強迫によって示談をした場合。
したがって、示談の内容があまりにも被害者にとって苛酷なような場合には、公序良俗に反し、あるいは本人の意思にもとづ いたものでないという理由で、裁判上無効とされる場合があり、あるいは、脅迫、恐喝、詐欺など刑法上の犯罪にもとづいて示談がなされたような場合には、無効とし、または取消しができ、示談をやり直すことができるわけです。
しかし、本問のように、事故直後には被害が比較的軽徴であるというみとおしで示談契約をしたところ、そのみとおしが追って予想外に重い被害であることが判明したような場合には、さきにした示談契約の効力はどうなるでしょうか。
この問題を扱った有名な裁判例を紹介しましょう。交通事故によって自動車運転手たるある被害者が左腕を骨折し、治療約一五週間の安静加療を要すると診断されたので、事故後一〇日目に加害会社との間で「事故による治療費その他慰謝料等の一切を自動車損害賠償保険金によって支払う。今後は事故に関しては双方何らの異議要求を申し立てない」旨の示談契約を締結したうえ、一〇万円を受領しました。ところが、その後被害者は治療を続けたのに、予期に反して容易に全治せず、ついに右腕関節が用に立たない程度の機能障害を残してしまいましたので、自動車運転手の仕事をやめなければならなくなり、治療費も七〇万円をこすまでに至りました。そのため、被害者は、労災保険の適用を求め、約四〇万円の給付を受けました。一方、これを支給した国は、加害会社に対して給付金相当の損害賠償を求めたところ、同会社は前述の示談契約を理由とし、「被害者は一切の請求権を放棄したのだから、損害金の請求に応ずる義務はない」と争いました。しかし、裁判所は、「自動車事故による傷害の全損害が正確に把握し難い状況の下で早急に結ばれただ示談契約の中で、小額の賠償金以外は将来一切の請求権を放棄する旨の約定がなされた場合において、その委任契約当事者の確認し得なかった著しい事態の変化により損害の異常な増加が後日に生じたときは、さきの権利放棄の約定はその効力を失うものと解すべきである」と判示して、示談後の損害についても原告の主張どおりその請求を認めたのです。つまり、この判決は、示談そのものを無効としたものではありませんが、示談額をこえる損害について賠償請求権を放棄する旨の条項については、その後の予期しない著しい事態の変化を解除条件として失効させる趣旨の行状がついているのだと推定して、権利放棄条項のみの失効を認めたのです。
ところが、別の裁判例をみますと、示談そのものを無効とするものもあります。たとえば、示談の前提である被害の程度について著しい相違がある場合には、その示談契約は意思表示の重要な部分に錯誤があるから無効であり、民法六九六条の適用がないからという理由で、さきにした示談を認めなかった事例があり、また、当事者双方において、交通事故による傷害が全治するものと誤信し、それを前提として賠償金額の争いを解決するために締結した示談契約は、その後、症状が固定して後遺症となったため被害者が就労能力を喪失するにいたったときは、要素の錯誤によって無効であるとした事例もみられます。つまり、これらの裁判例は、何らの争いがなく、互譲の対象ともならなかった示談の前提事項たる傷害の程度に錯誤があった場合には、民法六九六条は適用されないから、同法九五条によって示談契約自体が無効であるというわけです。
なお、このほか、「示談書作成の過程において、被告の責任、損害の数額等につき紛争を生じたことがなく、もっぱら保険金受領の確認が話題となったものであること、その金額も損害額に比べ少額に過ぎ、ほとんど保険金額の範囲をでていないこと、また恰も被害者の無責が前提となっていること等の事情があるときは、和解が成立していない証左である」と判示した例があります。
しかし、一般的にいえば、いったん示談したものを将来安易に覆されることとなりますと、これまた大変なことになりましょう。早期の示談は、被害者のためにも勧めてよいことであっても、これを否定すべき理由はありません。また、悪質な加害者は、示談をひきのばす理由に利用するかも知れません。広い意味の法的安定性のためにも、安易に示談の効力を否定することは考えものでしょう。最近では、示談をすませてから、後になって、この和解は要素の錯誤があるとか信義誠実の原則に反するとかの理由で無効を主張するものが多くなってきています。たとえば、遺族が茫然自失の状態にあった際の示談であったからとか、強制保険金の支払請求をする便宜上お互いに通じてした虚偽の契約だからとかいう主張がしばしばなされますが、これらはいずれも裁判所でその主張が認められなかったケースです。また、裁判例によっては、負傷者の入院加療に要する事績は争いの目的に属するから、その点についての錯誤は、和解契約の内容に何らの影響を及ぼさないとしたものも見受けられます。
いずれにしても「話し合いの決定は、後からは変更しにくい」ものですから、示談書の押印は慎重にすべきものであるとともに、あまりムリな示談は加害者にとっても有利ではないということになります。本問の場合も、示談当時の診断書、その後の医療費の計算など資料を比較検討して、その間にかなりな事情変更が認められるならば、あらためて加害者側に説明して同意を求め、それでも意見が合わず納得できないならば、訴訟を起こすほかはないでしょう。

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