一旦成立した示談を取り消せるか

一旦示談が成立し、示談書を作り、被害者もこれにサインしたときには、あとになって、この示談を取り消すことはできません。一〇万円で示談してしまったが、あとで調べたら、世間相場は一五万円見当らしいので、示談成立後になって、一五万円に上げてくれ、などと言っても、これは通用しません。他方、示談書が作られているからといって、被害者が頼みもしないのに、他人が気をきかして示談害を作ってくれた、などというときには、もちろん、示談成立になっていないのですから、そもそも取消しということもおこりません。
 しかし、ここにのべたことは、いずれも原則であって、いろいろな例外はあります。この例外は、現実にはかなりむずかしい問題をひきおこすことがあります。

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まず、示談の話合いは成立したが、まだ書面を作成していなかったときに、この示談を取り消すこなができるか。本来、契約(示談契約)というものは、話合いが成立したときに、契約成立となるもので、書面は必要条件ではないのです。しかし、書面がないと、あとになって、契約が成立したのかどうかわからなくなるのです。すなわち、書面は契約成立を証明する証拠書類として大切なことになるのです。ですから、示談書がまだ作成されていないときは、一方が、一昨日、金五〇万円で話合いが成立したじゃないか、と主張しても、他方が、いや、五〇万円という話は出たが、まだ、それで示談成立まではいっていなかったのだ、と反論すると、結局、示談成立したといえなくなります。示談成立したという証拠がないからです。
 結局、示談書に当事者がサインしてハンコを押す以前の段階では、話はまだまだ変わる可能性があり、口約束だけでは、事実上、取消しとか変更とかがあり得ると思わなければなりません。口約束であっても、そこに正式の立会人があり、示談成立した事実を証明できる場合もありますが、やはり、示談書がで、きたときに示談成立と考えたほうが無難です。
 つぎは、示談の内容に錯誤があった場合に示談を取り消すことができる場合があります。これも、簡単には取り消せるものではなく、非常に重大な錯誤があったときにかぎられます。
 錯誤とは、一般には、思い違いという意味ですが、法律的にはどういう意味に使われているかというと、民法九五条には、意思表示は法律行為の要素に錯誤ありたるときは無効とすと定められているのです。これを示談にあてはめてみますと、示談内容の要素に錯誤があったときは、示談は無効となる、と解してよいと思います。示談内容の要素についての錯誤とは、つきつめると、数量的なまちがいではなく、質的な間違いといえるでしょう。
 まず、一〇万円で示談成立させてしまったところ、あとになって、世間相場では一五万円くらいはとれることがわかった、という場合ですが、これは、要素の錯誤にはならず、したがって、この示談を取り消すことはできません。
 つぎに、示談の要素に錯誤があったとされた例ですが、事故後、一月七日から一月二三日までの間に五回病院へ通院し、首の痛みも取れ、レントゲン検査でも異常なし、と診断されたので、一月二七日に示談成立させた。ところが、三月末ごろから首の痛みが再発し、手足がしびれ、五月一六日から一〇月八日まで入院してしまった。退院後も四ヵ月以上通院した。こういう事例で、裁判所は、示談は傷が治癒したことを前提として締結したものであるが、その後、傷が悪化し、入院約五ヵ月を要する症状が出たのだから、この示談における被害者の意思表示にはその重要な部分に錯誤があったとみとめられる、と判断しています。
 結局、この示談はまだ成立していなかったことになり、その後の入院費や休業補償、慰謝料などを加害者は支払わなければならなくなったのです。
 まあ、示談の要素に錯誤があったというためには、このくらいの大きなあやまりがないと成立しないと思ってください。たんに、金額が少なすぎたというだけではだめです。もっとも、金額が常識的にみて、あまりにも少ないとき、たとえば、世間相場の三分の一以下とすると、これはやはり問題になるでしょ う。量的な問題でも、これが極端に違っていると質的なあやまりになってくることは十分考えられることでしょう。
 つぎに、示談成立後に後遺症が発生した場合ですが、この点については、前にもふれたとおり、現在の裁判所は、示談成立後に後遺症が発生したときは、これに対する補償は示談書に定められた金額とは別に請求できるとしています。ですから、示談成立のときに後遺症がすでに発生しており、当事者がこれを知っていたにもかかわらず、後遺症の補償について示談書に定めなかった、というようなときは、後遺症の点をふくめて示談成立したとみられてしまいますが、そうでないかぎり、後遺症の補償は、示談書に定めた金額とは別に請求できると考えてよいのです。
 まあ、正確にいうと、これは示談の取消しの問題ではなく、一旦成立した示談はそのまま有効であるが、ただ、示談成立後に発生した後遺症については、この示談と別個になるというだけの問題ですが、いちおう、取消しと関連するので、ここにのべたわけです。
 つぎに、代理人の無権代理の問題です。これは、被害者が他人に額んで加害者と示談交渉させていたところ、その他人(代理人)が、勝手に示談を成立させてしまったという場合です。問題は、この代理人に、示談を成立させるまでの権限があったかどうかにあります。示談交渉の権限と示談書作成の権限とは別ですし被害者が代理人に与えた委任状には、示談害作成の権限が書いてなかったとすると、この代理人には示談書作成の権限はないわけです。しかし、ことはそう簡単ではないのです。
 実際にあった例として、ある会社の従業員が交通事故で負傷し、五ヵ月入院し六ヵ月通院しました。この間、加害者との交渉、お金の受領などは一切、この人の上役がやり、さらに、この被害者は自分のハンコを上役に渡してありました。この上役が気をきかしたつもりで示談を成立させてきたのです。しかし、当の被害者は、これに不満で裁判をおこしたのです。結局、この件は示談が成立したとみられてしまったのですが、その要点は、ハンコを渡してあった点と、示談金額が、まあまあ妥当な金額であったことにありました。法律的にみると、示談交渉の権限しか与えてなくとも、示談成立の点までの権限な与えてあるように外観上みえるときは、表見代理が成立し、示談成立が有効とみられることがあります。この例のように、被害者がハンコを上役にあずけっぱなしにしておくと、示談成立の点まで上役にまかせたとみられる可能性があります。
 そこで、被害者が示談交渉を他人にまかせるときには、かならず委任状を渡し、これに、示談交渉の権限を与える、と明示しておいてください。もし、示談成立の点までまかせるなら、示談交渉および示談成立の権限を与えると書いてください。さらに、示談金受領の権限についても、これを代理人に与えるのか与えないのか、はっきりすべきです。ただ、示談成立や示談金受領の権限は、身内以外の他人に与えることは、絶対にさけるべきです。ですから、他人に与える委任状には、「示談交渉の権限を与える。ただし、示談成立および示談金受領の権限はふくまない」と明示するのが一番良い方法です。
 つぎは、主として死亡事故の場合の示談書で、死亡者の相続人が何人もいるときに、その一部を示談書におとしてしまうことがあります。傷害事故の場合でも、被害者が未成年のときには、被害者の両親が法定代理人親権者として示談書に署名押印しなければならないのに、その一方をおとしてしまうことがあります。こういう場合も、筋からいうと、示談書の取消しの問題ではなく、示読書に署名押印しなかった人の分については、示談が未成立であるとみられるのです。だから、示談書に署名押印しなかった人は、別に加害者に請求できるのです。しかし、たとえば、相続人が五人いるときに、そのなかの一人だけ、示談書に署名押印することを忘れてしまったが、示談書の示談金額は五人分担当の額であったとすると、一人分だけ別に請求することは無理かと思われます。この場合は、一人だけ署名押印を忘れたことが、たんなる誤記とみられ、示談は全休として有効に成立したとみられると思います。
 以上、示談書の取消しの問題を考えてみましたが、この取消しということは例外的なことであって、いったん成立した示談書は原則として取り消すことはできないものだということを、十分銘記しておいてください。

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